2011年




ーー−3/1−ーー 仕事が出来る人は電話を使う


 言わずもがなの事と言われそうだが、電話はとても便利な道具である。それを有効に使わない手は無い。子供にも、そう教えてきた。私自身、いまだに電話が得意な方ではないが、この心がけは忘れないようにしたい。

 意思を伝達する手段は、いろいろある。会って話を伝えるのが、一番確実だ。田舎の人は、些細な用事でも、わざわざ出掛けて話をする。それは一つの賢明な習慣だと思う。しかし、離れた場所では、そうも行かない。

 遠隔地に送るには、電話、手紙、ファックス、メールなどを使う。それぞれにメリット、デメリットがある。しかし、電話には、格別な優位があると思う。

 電話に対して苦手意識を持つ人は結構多い。子供はだいたい電話が嫌いである。大人でも、電話を掛けるのも受けるのも嫌いという人がいる。私も、どちらかというと、電話が苦手である。

 電話が苦手であるから、とかく手紙やメールで済ませてしまおうとする。もちろん、それで構わない場合もある。しかし、ここぞという時は、電話に勝るものは無い。意を決して電話をして、ああ良かったという事例は数えきれないほど有る。

 ちょっと電話をすれば確認できる事を、億劫がってやらずに、無駄な労力をかけてしまう事も有る。そういう時は大いに後悔をするが、次の機会はまた億劫な気持ちになる。それも、苦手意識がなせる事なのだろう。

 私は、若いころ会社勤めをしていたが、ある職場にとても仕事のできる先輩がいた。若くしてプロジェクト・マネージャーになったくらいだから、格別に優秀だったのだと思う。その人は、いつ見ても電話をしていた。しかも、いつも長電話である。受話器を耳に当てる仕草が、様になっていた。

 仕事ができる人は電話を使う。これは私がいままでの人生で得た見解である。

 ところで、昔は無くて、今は有る道具の中で、便利なものを挙げてみれば、いまだに電話がかなり上位にランク付けされると私は思う。江戸時代の人を、タイムマシンで現代に連れてきて、現代社会の様々な物を見せ、その仕組みや役割を説明したとする。そして、何か一つ持って帰れるとしたら何か?と聞いたとき、電話を一番に指定する可能性が高いのではないかと。

 もちろん、電話機だけ持って帰っても仕方ない。電話というシステムの事である。江戸時代に、全てのお宅で電話が使えるようになるのと、自動車を持つのと、パソコンが普及するのと、どれを選びますかというような設定である。

 おふざけの、イマジネーションの世界であるが、私は、遠く離れた場所にいる人の声を間近に聞くことができる電話が、一番に選ばれるのではないかと想像する。

 電話があれば、こんな会話になっただろうか。

 「もしもし、大石さん? ボク、江戸屋敷の磯貝ですけど、たいへんな事が起きたんですよ。殿が吉良殿に切りつけて、お上から切腹を仰せつかっちゃったんです。おまけに、お家取り潰しだって。どうします?」

 「そうか、それは困ったな。とりあえず、おぬしは殿にお会いし、後は大石がなんとかするから、心置きなくお腹を召されるようお伝えしてくれ。そして状況を逐一知らせて欲しい。わしが不在の場合は、留守電に残すこと。しかと頼んだぞ」




ーーー3/8−−− 鉋台職人の仕事


 先日、木工仲間で名古屋の青山鉋店へ取材に行った。鉋の製造工程を見学するためである。

 鉋は、鍛冶屋が刃を作り、台職人が台に入れる。青山氏はその台職人である。もう高齢であり、後継者もいないので、今年いっぱいで仕事を止めるとの話である。その前に、取材をしておこうという企画であった。

 台職人という職業は、日清、日露戦争の頃に誕生したのではないかと氏は言った。世の中の景気が良くなり、大工仕事の需要が増えたので、鉋も大量に作られたらしい。それまでは、台を作る専門の職業は無く、大工が自分で作っていた。専門職が誕生して、鉋という道具の性能も上がったのではないかと思う。

 その台職人も、今ではほとんど居なくなったそうである。機械で生産する事が主流になっているのだろう。鉋自体、あまり使われなくなっていると思う。替え刃式という、量産に適した鉋も出回っている。昔ながらの技法で台を作る仕事は、もはや風前の灯である。

 伝統的な鉋の刃は、鍛冶屋が一つずつ鍛えて作るので、厳密に見れば寸法や形状が微妙に異なる。それを木の台にしっくりと馴染ませるには、一品ごとに手作業で仕込むのが一番手堅いやり方だ。そうして作られた鉋は、性能も違う事だろう。もっとも現代では、鉋の性能の違いを求められる大工仕事が、減ってきているのかも知れないが。

 台職人の仕事も、木工作業である。目の前で見ると、実に興味深く、また勉強になった。

  作業の工程は、「木と木工のお話」に画像入りで紹介してあるので、ご参照願いたい。

 手間のかかる作業だから、時間は要する。しかし、実によどみなく進行する。傍目には、簡単にできそうな錯覚を覚えるかも知れない。しかし、実際はそうでは無いという事が、木工に携わる者にはしっかりと伝わって来る。墨さしで線を付けて、その線のどこを攻めてノミを打ち込むか。そんな事も、手練の技によってなされる、精密加工なのだ。

 一つ、改めて印象に残ったのは、伝統的な手作業でありながら、極めて理論的な手法であるという事だった。職人仕事というと、勘が勝負の世界のように感じるが、基本はロジックである。現物の形を写し取って加工をするにしても、やはり「こうすればこうなる」という理論が、随所に見て取れる。一発勝負の加工が、ピシッと決まるのは、ちゃんとこうした理論的な裏付けがあるからなのだ。

 今回見学をした経験は、自分で鉋をいじる時にも役に立つだろう。鉋という道具は、使っていくうちに徐々に調子が変わっていく。時には手を入れて調整をする必要がある。あるいは、購入した鉋を、目的に応じて改造する事もある。簡単な鉋を自作することもある。そんな時に、青山氏の作業が思い出されるに違いない。




ーーー3/15−−− 津波の恐怖


 3月11日は家内の誕生日であった。しかし、家内と二人だけになっている我が家では、これといった事も無く、午後を迎えた。

 午後2時46分、めったに地震が無いこの地で、激しく揺れた。軽い昼寝を取っていた私は飛び起きて、隣の居間に入った。テレビを見ていた家内は、画面が突然変わって、地震関係の報道になったと言った。そして、震源地が宮城県沖であることを知り、仙台にいる次女のことが心配になった。

 家内は娘の携帯に電話を入れたが、出なかった。娘は大学ヨット部に所属している。たまたまその日の朝から合宿に入る予定になっていた。海の上にいて電話が取れないのだと思った。

 テレビを見ていたら、早くも東北の一部沿岸地域に津波が押し寄せ、車や漁船が流されていた。このようなシーンは、国内の出来事としては見たことが無く、ギョッとして画面に釘付けになった。血の気が引く思いだった。

 午後3時22分に、娘から電話が入った。海上でヨットの訓練をしていたが、地震発生の情報が入ったので、陸へ戻ったところだと言う。私は、津波が来るから高い所へ逃げろと伝えた。娘は、この辺りは高台が無いので、とりあえず海岸から離れる方向に逃げると言った。近くの地面が割れていて驚いたとも言った。そして、津波はいつごろ来るかと聞くから、すでに襲われている地域もあるから、急いで逃げるように伝えた。

 私は、娘を含め、ヨット部員が陸に上がったことで、単純に安心した。

 工房へ戻り、仕事をして7時過ぎに家へ上がると、家内がオロオロしていた。宮城県の七ヶ浜で、津波による死者が出たと言う。七ヶ浜は、ヨット部の合宿所が有る場所である。急に不安になった。ネットで調べたら、その地域は、海岸線からかなり奥へ入った市街地まで津波が達したとの情報があった。

 陸へ上がったものの、もたもたして津波に巻き込まれたかも知れない。ヨットを片付けていて、逃げ遅れはしなかったか。荷物をまとめようとしているうちに襲われなかったか。忘れ物を取りに戻ったことは無かったか。逃げているうちに津波に追いつかれ、やられてしまったのではないか。小高い場所に上がって安心し、津波を眺めながら巻き込まれてしまったのではないか。テレビの画面に次々と現れた、想像を絶する規模の津波の猛威を見て、不安はつのった。

 その後娘との電話連絡は完全に途絶えた。回線が混んでいて、仙台周辺との電話通信はほぼ不能との報道があった。

 午後8時40分頃、大阪の息子から、大学ヨット部のホームページの掲示板に、地震に関する書き込みがあると連絡が入った。OBが投稿したもので、ヨット部が 閖上で練習をしていたはずだが、安否が心配だと書いてあった。閖上(ゆりあげ)という言葉の意味が、最初は分からなかった。

 しばらくして、それが地名であり、名取市の海岸地域であることが判明した。そこにヨットハーバーがあり、今回はそこで東北学院大学と合同で練習をしていたのであった。その新しい事実は、より悲観的な印象を与えた。名取市は津波で壊滅的な打撃を受けたという情報が入っていた。また隣接する地域では、200〜300人が溺れて死んだとの報道があった。

 そのような状況を知り、背筋が冷たくなる思いがした。それは家内も同じだったと思う。正直なところ、娘の生存に関し、50パーセントは望みが無いと感じた。テレビの画面を見れば、そう感じるのも当然であったと思う。津波が、もの凄い速度で田畑を覆い、建築物をなぎ倒し、飲み込んでいたのである。

 その後、ヨット部のホームページ掲示板に対する書き込みが増えてきた。東北学院大OBからの伝言、現役部員からのメールの転載など。しかしそれらの書き込みは、現地の混乱のためと思うが、時刻や地名、人名などの具体的なデータに欠け、確実に安心をもたらすものでは無かった。見方によって、良くも取れ、不安にも取れるような内容であった。とはいえ、困難な状況の中で、なんとか安否確認の情報を入手し、部員家族などに知らせようと試みた在仙関係者各位のご努力には、心より敬意と感謝を表したい。

 日が変わって12日深夜1時過ぎ、掲示板に決定的な書き込みがあった。現役部員によるもので、

 「練習に参加していた部員17名とOB1名は、車3台、原付4台でハーバーから避難した。国道4号の名取駅付近までは全員の安全が確認できていて、9名(実名記載あり)は現在いくつかの部員の家に集まっている。他の部員(実名記載あり)は別の車で分かれたので、以後連絡は取れて無いが、おそらく安全と思われる」

と伝えていた。娘は前半の9名の中に名前があったので、初めて生きていることが確実となった。私は、腰の力が抜けて、床にへたり込みそうになった。家内も同じだったに違いない。

 翌朝8時頃、電話が鳴った。携帯の画面で、発信者が娘であることを知り、家内は狂ったような声を挙げた。そして会話を始めた家内は、すぐ泣き声になった。私も携帯を受け取って、第一声はまともな言葉にならなかった。

 正に、九死に一生を得た。もし、わずかに何かが違っていたら、ヨット部員約20名は津波に巻き込まれ、地面に打ち付けられ、未来永劫遺体も出てこなかったことだろう。私と家内はこの先、宮城の海岸地域で、娘の影を追うことに、人生の残りを費やす事になっただろう。

 地震から日が経つにつれて、被害状況が明らかになってきた。被災時のおぞましい状況を伝える映像も、次々とテレビに現れた。

 恥ずかしげも無く、正直に述べるなら、以前の私は、こういう被災地の報道に触れても、深刻な気持ちにはならなかった。阪神大震災の時も、義援金に寄付はしたが、心情を重ねたという事は無かった。しかし今は違う。この犠牲者の中に、行方不明者の中に、娘の名前が有ったかもしれないと思うと、息が詰まるような苦しさを感じる。被災地の状況を目にするたびに、言いようのない悲しみに襲われる。肉親を亡くした人々の姿は、正視できない。このような悲しみを、なぜ人は被らなければならないのか、このような苦しみを、なぜ受けねばならないのか。自然を相手に生きる人類の、これは凄惨な宿命なのか・・・

 一段落した後、茨城に住む長女は電話を寄こして、家内に、「とんだ誕生日だったね」と言って慰めた。

 しかし私は家内に言った。「天災に見舞われたのは不運だったが、その中であの子は奇跡的な生還を遂げた。これ以上の誕生日プレゼントが、世の中に有るだろうか」





追記(3月16日)

 15日の夜、娘が仙台から安曇野の自宅へ戻った。初めて娘の口から、詳細な話を聞いた。それによると、地震発生当時および避難の状況は、以下のようなものであった。なお、文面は本人のチェック済み。



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 その日(3/11)の午後は、上級生の人数が少なかったので、外洋へ出るのは止めて、ハーバーの先の湾内で訓練をしていた。ヨットは、470級一艇と、スナイプ級一艇。娘は470に乗艇し、スキッパーを担当していた。他にレスキュー艇2隻に部員が分乗していた。海上にいた部員は、全部で16名だったもよう。

 風はさほど強くは無かったが、いきなり激しく雪が降ったり、すぐまた陽が射したりという、おかしな天気であった。

 突然ドーンという大きな音がして、浜に立っているクレーンや電柱が激しくグラグラ揺れるのが見えた。地震が発生したことが知れた。たまたま娘のヨットは、操船のトラブルのため水面で停止していた。地震による揺れは、陸上で感じるような種類のものではなかったが、なんとなく感じた。水面にいっせいにザワザワとした小さな波が立ち、ヨットはとどまったまま、周囲の水が動いている感じがした。

 地震に伴って津波が来るということは、部員に共通した認識だったので、すぐにハーバーへ戻ることにした。幸い風向きが良く、短時間でハーバーに戻れた。

 ハーバーの陸上にヨットを引き上げ、地面に固定する作業をしているうちに、大津波警報が出ていて6メートルの津波が来るという情報が入った。部員全員が、同時発生的に、ヨットを放棄して内陸部へ逃げるという行動にかかった。

 その日の朝から合宿が始まったので、個人の荷物はハーバーのロッカーに置いてあった。各自それを持ち、バイク、車に分乗した。バイクの中には、倒れて使用不能になっているものも多数あった。娘のバイクは無事だったので、それに乗った。

 合宿所に居たマネージャー2名は、地震発生直後の臨時ニュースで津波の警報を聞き、訓練中の部員に知らせるべく、400メートルほど離れたハーバーへ走った。その途上、名取川の河口付近で、川の水が引き去り、地面に横たわっている漁船を目撃した。

 マネージャーも含め、全部員が、車3台とバイク4台でハーバーを離れた。自転車で逃げようとした部員もいたが、無理に車に乗せた。

 道路にひび割れがあり、車のタイヤがはまって立ち往生するという事態も起きたが、部員が車を持ち上げて再び走ることができた。

 閖上の商店街を通過するとき、割れた窓ガラスを片付けたり、倒れた植木鉢を直している住民などが見えた。バイクで通りがかった所に老人がいたので、津波が来るから逃げるようにアドバイスをした。しかし、バックミラーに映ったその老人は、あわてる様子も無く歩いていた。

 道路に車が詰まって、混んできた。停電で交差点の信号が消えたことも、混雑に拍車をかけた。バイクは渋滞を縫って先に進むことも可能だったが、部員がまとまって行動すべきと判断し、車に沿って動いた。その合間に、携帯で母親に連絡を入れた(午後3時22分の電話)

 国道4号、名取駅周辺まで至り、解散して各自住居へ向かうことになった。娘は、同じくバイクで逃げていた先輩の女子部員と共に、国道4号で仙台市内に向かった。途中、名取川を渡る橋の上から、川の流れが大量のゴミを伴って逆流するのを見た。これが自分の眼で見た唯一の津波現象であった。

 午後5時過ぎに、市内青葉区のアパートに戻りついた。ウエットスーツを着たまま、ライフジャケットを付けたままの姿だった。同居している女子部員は、車で逃げた組だったが、道路渋滞のために時間がかかり、帰宅したのは午後9時過ぎだった。

以上





ーーー3/22−−− 原発の恐怖


 地震で原発が重大な危機に陥った。3月22日現在、事態は小康状態にあるかのように見える。現状を楽観的に見る向きと、悲観的に見る向きがある。現地の関係者から発信される情報で判断するしかないのだから、意見が分かれるのも当然だ。逆に言えば、判断に迷う程度の情報しか得られていないとも言える。

 私は以前から、原発に対して不安と危機感をいだいてきた。それを、家の中ではよく話した。子供たちにも、しばしば言って聞かせた。外部に対してそれを述べたことは少ないが、著書の中ではほんの僅かだけ触れた。

 水力発電所のダムが決壊しても、火力発電所が爆発しても、甚大な被害はあるだろうが、しょせん限定された地域の事である。原子力発電所が、チェルノブイリ級の事故を起こせば、日本という国は消滅する。地学上の日本列島は存在し続けるが、人間社会は破滅する。それほど莫大なリスクを抱えている代物なのだ。例え、事故が発生する確率が極めて低いものであっても、リスクが空前絶後のものであれば、それらを掛け合わせた期待値(この場合は期待したくない値)は看過できないものに違いない。

 エネルギー資源に乏しいこの国で、原子力が不可欠であるという意見が支配的である。必要なものだから容認する。そのような理屈に支えられて、原発は推進されてきた。私は、必要なものだから反対をすると、周囲に話してきた。必要性が無いものなら、自然に消滅する。必要とされるものだからこそ、批判的に捉えなければならない。そういう矛盾の不快さが、安全を確保するのだと思ってきた。

 しかし、家の中でこんな事を喋るだけで、何ら具体的な行動をしなかった私のような者が、今更偉そうな事を言っても意味が無い。評論家面で批判してきた者も、能天気に構えていた者も同罪である。「仕方なかった」で済まされてしまう先の大戦と同じように、責任は社会全体にある。





ーーー3/29−−− 変わりけん玉


子供の頃、テレビで見た映画、たしかフランス映画で、ジャン・ギャバンあたりが出ていたものだったと思う。その映画の中に、印象的なシーンがあった。

 下町の酒場の入り口に一人の男が立っていて、けん玉をやっている。ストーリーの本筋とは関係ない。映画の内容は忘れたが、そのシーンだけは印象に残っている。あちらのけん玉は、玉と棒だけである。日本のもののように、十字架型で皿が付いているものではない。映画の中の男は、玉を宙に振り上げて棒に刺す「ふりけん」という技をやっていた。繰り返しやるのだが、百発百中の腕前だった。そして、かなり長いカットの最後に、極め付けのような「ふりけん」を決めた。それが場面に華を添えた。もし失敗したら、全体の撮り直しになったろう。その緊張感が、子供心にも伝わった。

 画像は、最近作った「変わりけん玉」。どう見てもけん玉という感じではないから、最終的なネーミングには一考を要する。玉も無いし、皿も無い。刺すことに特化したものである。できるのは「ふりけん」と「とめけん」くらい。それでは技が少な過ぎてつまらないと思われるかも知れないが、そうでもない。上に述べたように、外国のけん玉は単純な機能しか無い。これでも、遊んでみれば、十分に楽しいのである。

 ポイントは、ポケットに入るサイズ。手軽に持ち運んで、どこでも遊べる。ちょっとした暇つぶしに、もってこいだ。また、パーティーの場に持参して、かくし芸として見せる。これはなかなか受けるだろう。ただし、十分に練習をし、確実に成功するようにしなければシラケるが。

 酒場の入り口とは言わず、例えば駅のホームで、列車を待っているときにこれを取り出して遊ぶ。回りの人と、ささやかな交流が生まれる。そんな事ができたら楽しかろうと思った。娘にそのことを話したら、「ありえない」と笑われた。









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